わたしが神社を好きな理由【神社と水晶,現実創造,穢れ,水晶理論】
みなさんこんにちは😊
今日は昨日の「かんながら」からインスピレーションを受けて「わたしが神社が好きなのはなぜか」ということを書いてみようと思います。
そう、わたし神社大好きなんですよ。
本当は日本全国津々浦々の神社に詣でたいぐらいですが、それほど行けてません。
遠出して出雲大社、伊勢神宮ぐらいでしょうか。
それでもサラリーマン時代に比べたら随分と色々な神社に行くようになりました。
なぜわたしがそれほど神社が好きかという理由をこれから書いていきますけど、その前に。
以前わたしの「生い立ち」を書きました。
この「生い立ち」、みなさんにとってはどうでも良かったのか、キリスト教にかぶれた怪しいやつだと思われたのか、話が難しすぎたのか、いいねがめっちゃ少ないです😅けど、その中でわたしが書いているように、私は幼児洗礼で自分も知らず知らずのうちにキリスト教の信者になってしまった人間。
幼い頃は親に連れられて毎週毎週教会に通って、おとなしくミサを聞いてましたけど、成長するにつれてだんだん「グレて」きまして。
なーんかおかしくねー?
と思ってきたわけです。
その違和感を成長とともに咀嚼していくうちに、わたしはその理由にたどり着くことができました。
教会ってやつ(失礼🤭)の教えは、「恐怖」がベースになっている。
だから違和感を感じたんです。
例えば「原罪」という考え方。
人間は生まれながらにして罪深い。だからその罪を償うために教会に通いなさい。
通わないと地獄に行くからね…😎
毎週のミサでイエスキリストを十字架にかけたことを2千年以上クドクドクドクド繰り返して、人間は罪深い…
だからお前は罪深い。当然教会に通いなさい✌️
とも言ってる…
さらに、教会に通わないと地獄に落ちる。教会に通った人だけが「永遠の命」を授かるんだー。
とも言う。
うーむ😅脅しですな。
とまぁこんなふうに、教会の教えは「恐怖」がベースとなっています。
なぜそうなのかと言うと、教会は信者に支持してもらわないと、自らを維持できないからです。
そして、人間というものは「恐怖」じゃないと動かないからでもあります。
(ちょっと前に「それやってる人、終わってます‼️」というのが流行りましたが、ああいうのも人間が恐怖にだけ反応するという性質を利用したものです。)

一方神社は全く違うじゃないですか。

神社というものは自然信仰から発祥していて、そもそも宗教じゃない。
御神体は自然。
信じなくてもいい。
通わなくてもいい。
気の向いた時に五円玉を握りしめて詣でればそれで良い。
いまどき五円ですからね❓
罪悪感で信者を縛ろうとする教会に比べたら神社ってものすごーく「おおらか」なんですよね。
そして、神社というあり方は、私の言っている「水晶理論」そのものなんです。
わかりますかね?
まず、鳥居をくぐって拝殿に向かう。
素晴らしい神社は大抵は大自然の中にあります。
また「御神木」と言われるような巨木があるところが多い。
そのことが「神様は自然の中に宿っている『生命エネルギー』そのものなんだよ」ということを表しているように私は思います。
そして、拝殿に辿り着き、手を合わせる時に見えるものは
「鏡」
鏡ですよ。
大自然の中をくぐって神様を探していくとそこにあるのは鏡。
これ私が言ってることそのものなんです。
私たちは、何か確かなものを常に探しています。
本を読んだり、YouTubeを見まくったり、パワースポットと呼ばれる場所に出かけたり…
と「真実」を探そうとする人は多い。
でも、あなたが自分の外側に求める真実。
それは実はあなたの中にしかないのだ。
あなたが自分の世界を創造しているのだ。
だから何か叶えたいと思うものがあるなら、避けたいと思うものがあるなら「汝自身を見つめよ」
と神社は言っているのだと私は思うわけです。
こんなふうに私の言っていることとあまりにもドンピシャなので、私は神社が大好きなのです。
神社という存在は、わたしの水晶理論をそのまま現実化したような存在。
わたしはそう思います。
それにしても先ほども書いたように神社という存在はとても「おおらか」です。
恐怖で縛らない。
通うことを強制しない。
五円玉でも許してくれる。
…
今、日本人は戦争に負けて自信喪失し、日本人というアイデンティティがわからなくなってしまっていますが、日本人のアイデンティティはこの神社のように、本来ものすごーくおおらかなんだろうなと私は思います😊
わたしはそんな「おおらか遺伝子」を持った日本人の一員であることを誇りに思います。
本日は以上です💗