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第二章内観を進めるポイント8

内観のやり方

第二章内観を進めるポイント8

『心に愛と光のサンクチュアリを♡』

内観が始まってから自分がすっかり忘れてしまっていた『好きなこと』を思いだしては復活させていくということをしました。
そのひとつが音楽を聴くことで、わたしはCDプレーヤーを買ってむかしのように音楽を鳴らし日々楽しく鼻歌を口遊むようになりました。
音楽好きな友人が教えてくれた『サンクチュアリ』という歌にこんな歌詞がありました。
『愛ならここに 想えばすぐに 帰っておいで このサンクチュアリ』
優しく深い女性の声と明るいメロディーに乗ったこの歌詞が妙に心に残り、いつも口遊むようになりました。
サンクチュアリって聖域。偶然だけどわたしのずっと特別な言葉とおなじでした。

わたしは10代半ばのころには心のなかに高く分厚い壁の部屋があるイメージを持っていて、そこをだれも入れない絶対不可侵の場所としてわたしのサンクチュアリと呼んでいました。
そこは窓ひとつ無い真っ暗な部屋だったけどここにいるだけで安心できました。
今思うと聖域というよりは保護区であり生存のためのギリギリの避難所ですね。
40歳を過ぎて内観が始まったころ、ふとこの壁のなかを掃除しようって思いました。
内観という言葉を知らなかったけど、内観そのままですね!
数年かけてこの壁のなかの埃やクモの巣を取り払い、なんなのかもう判別がつかないごちゃごちゃした朽ちたモノを片付けました。
床が見えてすっきりとして途中で大きな窓が取り付けられて部屋が明るくなりました。
窓の外に空が見えることや遠くまで草花が咲いた草原が広がっていることに気がつきました。
このへんで現実にはユメノナカノヒトや天然石に出逢いました。
明るく見回せるようになったこの部屋にきれいなモノを飾りたいって思うようになりました。
そのうち窓を開けて壁のなかに風を通したり、玄関のような重い扉をときどき開けてみたりしました。
心のなかとはいえ、窓や扉を開くのは怖かったのを覚えています。
心のなかの壁のなかから外に出る大きな心境の変化とともにインスタグラムの鍵を開けて人とつながりたいと思い始めました。

心のなかとはいえこのように心の景色が変化したのは、この心の壁のなかにこの人なら来てもいいというくらいに心を開ける信頼できる人に出逢ったおかげでした。
わたしは閉じこもっているから『新しく人とつながれたこと』がものすごく重要な出来事と感じました。
人に対する不信しかなかったわたし。孤独にいながら寂しくて、愛も人も信じていないのに愛も人も信じたいと夢見るわたしがいました。
信じるチャンス。本当に変われるチャンスを得たと思いました。
それをかみさまに感謝しながらわたしもその人に似合う自分でありたいと自分を磨く道を行くことになりました。
そしてありがたいことにこの道を行き天然石と出逢い、それからは信頼と誠実と『気』が合う人間関係が増えました。
この道を行き起きるモノや人の出逢いを鏡としてこの感覚の道を行く自分を信じてきました。
行き先も分からないけどこの感覚を頼りに自分にも人にも心開いて信じることを学び、自分にも人にも心底から誠実であることを誓い、わたしは顔をあげていっぽいっぽ進んできました。
内観ってなんのために?というとき、今の居場所が合わないとか人間関係に問題があるとかなにかあると思います。
内観が始まるきっかけが心の掃除のテーマやキーワードとなるから自分に対する関心や、誠実さはぜったい必須です。
自分の内面が鏡となり外側に反映していると思えば、自分がどう在るか、はたいせつです。
これからはどんな人とつながるかもこれからの自分のために本気で突き詰めて考え選択することが必要な場面もあります。
いつでも出した答えが外側の現実に現れます。

インスタグラムって実際に対面して知りあうのではないけれど、それでもわたしは鍵を開けるときここに言霊の安心の祈りを込めました。
言霊とイメージの祈りのチカラを信じるわたしのたいせつな儀式です。
歌を口遊んでいるときのわたしは心身が元気でラッキーなことが起こる。
光が強くて波動が高いと思っていました。
自分のありのままの内面が外側に現れるのだから、
天然石を前に軽やかに整えた心でわたしのサンクチュアリをあらためてイメージしました。
『虹色の光浴びて口遊み魂きらきら輝かせて生きるわたし』と思い浮かびました。
色とりどりの花が咲く草原があり、虹色のあたたかい光に包まれてくつろぐわたしがいました。
描いたそこには壁はないからどこへもつながっています。
心地いい風が吹いてきもちよくてわたしはごきげんさんでなんにも考えてなくて歌を歌って子どもみたいに笑って遊んでいます。
いろんなしがらみや価値観から解放されて、ただのわたしがそのままそこにいるかんじでした。
こんな場所、こんなわたしになる!
愛をこめてそう祈りながらインスタグラムの鍵を開けました。

壁から出た心のなかは広かったです。
いろんな感情がまだあちこちに散らばりながらもかわいい天使やハートを買いたいっていう初対面な自分と出逢ったのはびっくりしました!
そしてわたしの内観にとってタイミングよく社長さんの投稿が始まり、天然石との内観が次は心の奥底のフタを開け、さらに深さを掘っていくようになりました。
(天然石との内観で感じたことを次回から書いていきます!)

心の風景と、サンクチュアリ。
真っ暗頑丈な壁の避難所もわたしを守ってきたサンクチュアリだったけど、新しくイメージしたサンクチュアリは光と居心地良さにあふれていました。
そこは内観中わたしの愛あふれる光の避難所になりました。
どんなわたしも許される場所です。
心の奥深くを抉るような吐くような内観のとき、自分責めが始まる前に素早くここに逃げこみました。
やっぱりダメだ、しあわせになる資格がない!って思う対極にある、みんなぜったいしあわせの調和の聖域。
まだまだそんな光のなかの自分ではないけれど、このサンクチュアリにいる自分になりたいと思うことが内観に方向と光のなかにいるわたしのイメージを持たせてくれたおかげで光のほうへと進みやすくなりました。
内観中サンクチュアリの世界観が本当にわたしの心の聖域で拠り所でした。

内観を進めるうちにインナーチャイルドという言葉を知って思ったのは、サンクチュアリとして描いた場所がわたしらしく生きる居場所で、そこにいるわたしがインナーチャイルドを癒し回復した自然なわたしの姿。
これが『本来のわたし』と思いました。
リーディングメッセージがなんども問いかけてくれますね。
あなたはどうしたいですか?
あなたはどんな自分で生きていきたいですか?って。
問われて思い描き、言語化する景色はこの光のサンクチュアリにいる自分といつも違和感なくつながります。

そう思ってもサンクチュアリにはなんてかけ離れた自分がいるんでしょうか!!とも思っていました。
2023年の始まりは前年末に光のサンクチュアリを描いたことによりこの現実のわたしの闇が濃くなり、この差をいちばん目の当たりにすることになったのでした。
しかし、リアルを知るのは前進に必要です。
自分がリアルに思い描けたからその人はわたしの内側にいるということです。
生まれてから真にすくすく育ったらその人のようになっていた、って思うんです。
どうしてこうなったの?
どこがこんなにズレてしまったの?
って理想が顕になると現実との差が凄まじく感じられました。
自分らしくなくなった理由。
まわりに合わせるしかなくなった理由。
どこに移動しても必要だと思われたい、イイヒトでいなくちゃそこに居られない、と、ただそこにいることに必死で理由を見出し焦っているわたし。
世間は容赦なくていつでもわたしにダメ出ししてきて、わたしは常に自信なくいつも死を意識してギリギリに生きてきました。
そのギリギリの弱ささえ、人に話すと『そんなに繊細で弱くてどうする!もっと強くないとやっていけないよ!』と指摘されて、自分が弱いからだ、もっとしっかりしなくては、とさらに自分を厳しく追いこむだけでした。

このような人独特のそんな心理があるって思います。
日頃が常にギリギリだから少しのことでわたしはすぐに泣いてしまいます。
身近な人がジョウダンって言いながら笑いながら言ってくる軽口はわたしにとって悪口でいつも深くキズつきます。
泣くと『これくらい聞き流せなくてどうするん?そんな弱いことでどうするん!そんなことで生きていけるん?』って言われました。
楽しかったのに空気が壊れた、あんたのせいだ、って言われる。
泣くわたしのせいで『こっちが悪いみたいやん』ってキレられる。
わたしが泣く原因はその人がひどい言葉を言ってきたからなのに、泣くわたしが怒られてる。
わたしが悪い、弱いから悪い、って自分を責めてばかりだったけど、内観を始めてから数年過ぎたころ、ジョウダンって最低限みんなが楽しく笑えることだわ!って初めて言い返してジョウダンというイヤな笑いに巻きこまれるのはそれが最後になりました。
小さいころからずっと、すぐ泣く!って怒られてきました。
だけど、もしもわたしが泣かないようなふつうの強い心の人だとしても、ジョウダンと言ってなんでも不快なことを指摘して言っていいのかは別問題って思います。
わたし的には論外な感覚で、そんな人間関係イヤだときっぱり線を引いています。

育ちかたがひどかった人ほど肯定感なんてカケラも無くて、ただそこにいるだけで必死なことはほとんどの人には理解されません。
自分でもすぐに泣くことやすぐにキズつく心の弱さに自己嫌悪して、自分はもっと強くならなきゃって自分をムリさせたり、自分が自分をキズつける側に回ってしまって、自分の味方はどこにもいません。

内観ブログを始めてからご縁がありお話をしてくださる人が何人かいるのだけど、内観を進めるポイントを読んでくれていてもちょっとしたきっかけで激しく自己嫌悪に陥られたり、自分責めが止まらなかったりする様子が伝わりました。
わたしもくじけるほどくりかえし体験したからよく分かります。
もう、自分責めが息をするみたいに染みついているの!
わたしだけじゃなかった。みんなそうなんだなぁ、って思いました。
だから、あなたが弱いからじゃないよ、あなたは悪くないよ、って言います。
洗脳されるみたいに刷りこまれ、大きく育ててしまった心理のせいなんです。

心折れやすさ、諦めやすさについてインスタグラムに投稿した文章を書き写します。
親に愛されて育ってるあなたにはわたしの苦しみは分からない。
わたしは愛され天真爛漫に育ってる人を非常に好きになりながら自分のなかに相反する憎しみが思い浮かんでは苦しんできた。
親となかよしな人に憧れるし、見てて本当にほっこりする。

うらやましいって心底思う!!

この『心底』がわたしのなかのドロドロしたところを刺激して騒ぎだす。

なぜか怒り!!
なぜかその人にチクッと嫌味を言いたくなって言ってしまい、自己嫌悪する。

その人は悪くないのにわたしは最低!!

自信なくなる。
こんなわたしは好かれる価値がない。(低)

いいな、いいな、うらやましいな。
わたしもそうやって育ったらよかったのにな(泣)(妬)

なんでわたしはこんなふうなんだろう。
好きな人にもいらないことを言って迷惑かけるから好きにならんとこう。
ちょっと遠くにいよう。
これが安心。(歪)

最初から好きって言わなかったら嫌われない。
好きになってもらおうなんて思わなかったらいい。
(わたしにはそんな価値ないしな)

って、だれからも距離を取り壁を作り心を閉ざしていた。
ふつうに挨拶して自己紹介して人間関係は始まるものでそれで嫌われるわけがないのに『わたしは嫌われる』ってこの恐怖と葛藤が最初から強く存在する。

こういうところで『育ちの差が出る』って思う。
皮肉ではなく、これは親に愛されて育った人には本当に分からない感覚と思う。
そういう人に、気にしすぎ、と言われる。
被害者意識、と言われたこともある。
繊細すぎ、とも言われ、だんだん首を絞められるみたいに息ができなくなっていく。
言われる正論も分かる。
だけど言われるほどにわたしが責められ、わたしが悪いって言われてるみたい。
わたしが悪いのかもしれないけど、この行き場無さ、救われ無さに空気が薄くなる。
これ以上がんばれないのにやっぱりわたしが悪くて価値がないからまた行き詰まって、もう世界が違いすぎるって心折れて。
ここまで秒で簡単に思考は転落する。

それは愛され土台が無いから。
カルシウム不足の骨みたいに土台は脆くスカスカで
ほんの少しでクシャリと壊れるのだ。
さらに『生きる価値がない』ってそこまで一気に自身の思考が思い詰めることを真っ当に育った人には理解不能だろうけど、わたしのように肯定感ズタズタに育った人には分かってもらえる人もいるんじゃないかと思う。

こんな価値がないわたしって思うのをやめたい。
愛じゃないもの。
もう子どもに戻れないから今さら親に愛されなくていい。
だけど健全に自分を愛する自分になりたい。
その健やかなわたしで生きていきたい。
そのわたしを愛されたい。
人を気にせず自分らしく、自分のために生きたい。
石とつながりそのように思う。

今までのパターンをくり返せば今までとおなじ。
今までと変えるには根っこを手放し思考から変わる。
変わってしまって今のまわりに受け入れられなくったっていいじゃない?
すべて失ってもわたしが好きなわたしで生きていく。
って、わたしは本気でこのように捨て身の覚悟があった。
そもそも切るのが惜しいご縁なんてなくて、だから逆に強かったかもしれない。
土台がカルシウム不足の骨のようにスカスカだったのも、そこに石たちの愛のエネルギーが速やかに満ちやすかったと感じる。
他人に土台をキズつけられた人はたいへんに生きてきた。
そのぶん生まれ変わる覚悟を本気でしやすく、ふつうの人よりほんとに土台から純粋清らかな愛に満ちて再誕生するって思う!

↑インスタグラムより。
前半、見事にじっとり捩れて捻くれていますね!
わたしはわたしでしかないからこれを読むあなたの心理とまったくおなじではないだろうけど、過剰に自分が悪いと責める似たような傾向はあるんじゃないかと思います。
40年もそんなわたしで生きてきたけどそれから6年間を内観に費やし光の聖域を心に持つまでに変われたところに内観の意味や理由、真実があって、現実にもわたしは今生きる意味を感じるし、命を輝かせようとしています。
わたしと似たような苦しみのなかにいる人に、内観が自分を救う手段になることと、自分を優しく愛してほしいと伝えます。
ぜひあなたも心に愛と光のサンクチュアリを♡
どんな場所で生きていきたいですか?
そこにはどんな自分がいますか?
制限なくすなおに出てくる理想の世界を思い描いてください。

何年か前にコロナの騒動がありましたよね。怖いニュースがあふれました。
病にかかれば死ぬかもしれないと思えば今目の前のさまざまな制限など一気にたいしたことないと思えました。
世界がめちゃくちゃだからこそよけいに自分の内側に集中して内観が加速しました。
数年しか命がないなら自由に生きたい!とわたしの魂は叫びました。
それでわたしとわたしの家族は合言葉のように、やりたいことをやろう!と言いあうようになりました。
この意識は家族間で今も継続しています。

死ぬかもっていう意識の前に感じた本音は本物です。
いつまた似たような騒動が起きるか分からないです。
そうじゃなくても事故やなにかで人間はいつ死ぬかって予想できないんです。
あの騒ぎは生きるということや生きかたについて真正面から突きつけてくれたのではないでしょうか。
リアルに生きることを考えるすごくいい機会だったとわたしは思っています。
それで今もずっと真剣に自分を生きることを追求しています。
それは初詣の初心がずっと続くようなもの。
そしていつ死んでも悔いないように、です。
休めるサンクチュアリを持ちながら、自分の内側の、なにか変えたい、変わらなきゃと思った初心の意識を保ち続けること。
それだけは『厳しく』心に置いてほしいです。

内観はこれまでのクセや嫌いな自分が執拗に現れるけどどんな自分もありのまま知る過程です。
心折れそうなときは軽やかに自分のサンクチュアリに戻って自分に優しくすることを学ぶ。
そのやり直しも含めてすべて自分に必要な経験を重ねています。
何度だって心新しく始められるという体験は自分を許す学びであり、他者への批判をなくし寛容が身につきます。
自分のタイミングで内観を休んだり進めたりはまわりではなく自分の心に寄り添うことを優先することを学んでいる。
このようにすべてムダになることなく成長と手放しにつながっていきます。
自分を愛し許しながら、自分が生きやすくなるまで自分のペースで内観をやり続けてほしいと祈ります。
愛と光のサンクチュアリ、思い描いてください。
だんだんと心のなか全体にサンクチュアリが広がって、自分自身がサンクチュアリにいる人みたいになって、そして現実の居場所も描いたサンクチュアリそのままに創造されるって思ってます。

 
 
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