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第三章天然石と内観4

第三章天然石と内観4

『愛を学び愛の自分軸に作り直す内観』

天然石を持つようになりなにが変わったかというと、わたしは自分のことをいちばんに考えるようになりました。
愛の意識がまんなかになり、自分が喜ぶように、自分が快適なように、愛の目で自分を見ていつも自分を整えています。
愛がまんなかになったので日々起こる出来事の受けとめかたから過去や現在や未来への思いかたなどにも愛が浸透していきました。
自分の内側が愛に満ちるので自分に対する抑えや犠牲的精神は無く、自己批判もありません。
自分を肯定し、ありのままでそれでいいのよって思うくつろぎ。
それがとても自分をやわらかくいさせてくれています。
これが本当に今までなかった感覚なんです。
天然石と過ごして、いつもあたたかなメッセージをいただきながら愛を感じ続けて愛を知り、学び、今そんなわたしに生まれ変われました。

わたしは怒らなくなっていたけど最近は怒らされるような出来事に対して怒りの感情をちゃんと出すようになりました。
怒らないのはいいことだ、って思っていましたが、それ以前の、怒らされる出来事が起きないようにしなければいけない、と気づきました。
自分がくりかえしキズつかないように自分を守る意識が芽生えました。
わたしの場合、そこがすごく変わったところです。
キズつくと消耗します。
そんなことを言ってくる人をいつも警戒していると自分の『気』が減っていきます。
自分が自分をダメなやつだと思う思考も自分をキズつけるから自分の元気を無くしています。
そうした原因や自分の思考も変えて、『気』が減らないようにしました。

消耗し失っていた『気』をこれからは失わずに自分のケアに使えるようになりました。
それが自分の回復や安定につながりました。
本当に『人のことより自分のこと』なんです。
内観が必要な人ほど今大変で必死なんだから、人に気を張って気を遣っている場合では無いんです。
それに気づいたわたしは自分のエネルギーを自分に使えるようになりました。
天然石のおかげで愛や愛じゃないことが目まぐるしく起こり忙しいのだけど、いつも自分の癒しを優先して全力で向きあえるようになりました。
この学びのために起きることと、それを乗り越えるためのエネルギーがおなじって思います。
自分のエネルギーをすべて集めて必死に自分のチカラを出しきって乗り越えるようになっています。
だから常に自分を愛の気で満たしていないといけないんです。
いつも自分を優先することや、甘やかして満たすことは必須で、あたりまえのことになるんです。

天然石は美しくってタカラモノで、当然たいせつに扱いますよね。
自分のこともそのようにたいせつに扱うのだということにある日思い至りました。
自分をたいせつにってよく聞く言葉だけど具体的にどのようにするのかがわたしのなかではふんわりと曖昧でしたが『石が魂のカケラである』とHanaさんがあるとき言われました。
わたしはそれを聞いて、それまでもとても石たちをたいせつに扱ってきたけど、石たちはわたしの魂のカケラ、魂はわたしのなかにあるから、この石たちはわたしのなかに仕舞われたわたしのたいせつな一部なのだ、と具体的に思い描くことができました。
カラダがあって、心があって、そのずっと奥に魂があってそこにわたしの天然石たちがいる。
わたしとはわたしの心、カラダ、魂。全体で『わたし』です。
一部を切り取り石だけをたいせつにしてあとは雑に扱うなんてできません。
全体がひとつですから、石が含まれるわたしのぜんぶをたいせつにして石とわたしが本当につながれると思いました。

ありのままを愛でる石を前に自分の容姿や心のクセもありのまま見られるようになりました。
わたしは顔にクマがあり容姿に自信がありません。
見た目には内面が表れる、となにかで読んでますます自分の内面にも自信が無くなりました。
執着するような粘着質なところがあるし、攻撃的に人をキズつけるキツイことを言ってしまうところもあります。
これまでの自分のマイナス面を思い、だからこんな顔なのか、と泣きました。
でも、見た目に内面が表れるなら、それなら心をキレイにしたら見た目が変わる可能性があるんだろうか、とある日思いました。
石たちはわたしの容姿についてひとこともなにも言いません。
リーディングメッセージはわたしの内面にばかり言及します。
究極には『わたし』とは心と魂なんだと思います。
わたしの石たちを眺めてその泣けるほどの美しさや清らかさを見ました。
その泣けるほどの美しさや清らかさがわたしの魂、と思い描くと、わたしは内側にすごく美しいものを持っている!と感動しました。
その意識に目覚めたら自分をすごくたいせつに思うきもちが込みあげました。
カラダは魂の器。カラダに対する思いかたも、ちゃんと休めてあげたいとか、美味しいものやカラダにいいものを食べてあげたいとか、健康になるようにって思いました。
きもちいい肌触りの下着や服を身につけたいって思うし、自分を居心地いい場所にいさせたいって思います。
天然石を愛でるように、自分の見方や触れかたが具体的に心に沁みて理解できて、わたしはまた愛の光のほうに前進することができたのでした。

なんども書くけど、石たちは持っているだけで自分を変えてくれるわけではありません。
変わるように気づくように愛を込めてメッセージを伝えてくれるけれども、変わるかどうかはこちらの意識の目覚めしかないです。
石はこの意識の目覚めをあたたかく待ってくれています。
この見守りに本物の愛を感じます。
本当にわたしのためになるのはどういうことかというと、なにもかも答えを示されるよりは自分で気づいて変わっていくことなんですよね。
そもそもたくさんの感情を体験するために生まれてきたのだからたくさん悩むことも魂の喜びです。
それを含めて本当に愛するとはどういうことかを石たちから教わっているといつも思います。

自分の奥深くから天然石のような愛を広げる!とある日思ったとき、石たちと手を握りあうイメージが湧きました。
石と握手して離さない。
自分からも強く握るという積極的な姿勢が意思を意志に変えます。
わたしは石とひとつになり、わたしも石のような愛になる。
そう思ったわたしを石がさらに支えてくれてチカラを貸してくれる。
つないだ手と手からエネルギーがぐるりと回って循環していくかんじ。
エネルギーが回るたびわたしの内側を清らかな愛が通り抜け、洗ってくれる感覚を持ちました。
そんなお互いがあってこそ膨らむエネルギーが愛に向かう内観を加速しぐいぐいと進ませてくれたと感じます。

常識よりも愛を意識した軸になり、自分のきもちや感覚を優先することができるようになりました。
自分を愛するというふうに心を入れ替え、今までたいせつな人をたいせつにしてきたように、おなじように自分も愛する。
やっと本当にそう思えました。
自分に優しくして、自分の苦しみにもいっしょうけんめい向きあい解消してあげたいという自分への愛がふくらみました。

振り返ってみると、わたしは自分の思考力があるから自分の考えはしっかりあって、自分というものをしっかり持っていると思っていたし、人からもよく言われました。
だけど今思えば強すぎる自我の自分軸でした。
母にムシされていたからムシする人は悪い!!って堂々と批判しました。
どうせ自分は嫌われるって思い込みでまわりを見るからすべてがひねくれて見えていました。
どうせ人間関係は続かないからって最初から壁を作って自分を守っていました。
なぜそうするのか、自分の考えはしっかりあるから、なぜあなたはそんなふうなの?と聞かれたら、こうだからですって理由をはっきり言うことができました。
自分を狭めて自分を痛めつけるような世界に、自分が自分を置いていました。
これも『現実創造』。
だけど、しかたないって思っていました。
だってこんなわたしなんだものって。
悲しく育ったからしかたない。
こんなわたしでやっていくのがわたしの人生なんだって思っていました。
今思うとガチガチに鎧を着ていましたね。
重いし硬いです。

でもずっと愛に意識が向く人生。
『母に愛されたかった』という想いが付きまといます。
わたしにはわたしのことを『だいすき』と毎日抱きしめてくれるムスメがいます。
わたしは母にムシされて育ったからムスメをムシすることがなく、話しかけられたらいつも目を合わせて向きあいました。
わたしは母と触れあった記憶も無いのでムスメのことをいつも抱きしめました。
そして母に言われたことがない、だいすきだよ、生まれてくれてありがとう!という言葉をいつも伝えました。
母を反面教師にしてわたしはわたしがして欲しかったことをムスメにして擬似体験みたいに自己満足していました。
ムスメが大きくなってもいまだにわたしを抱きしめてくれる人に育ち、この子がわたしに向けるこの愛が『愛』だって自分の子に教わったのです

無償に好きって伝えてくれる子を持ってわたしは考えました。
子どもがわたしに思ってくれているように、またはわたしが子どもに思うように、わたしがわたしに思うことは可能なのかな。
子どもが生まれたときに、この子の心からの笑顔を守って育てると誓いました。
それは祖父母の暴言や祖父母と母の不仲や、母のやつあたりにさらされてわたしが笑えなくなり無表情で育ったからそう誓ったんだけど、それを自分自身には『わたしの笑顔を守る』なんてそこまで思ったことがなかったのです。
わたしはここにいさせてもらって、それ以上を望んではいけない。そんなしあわせに生きられる種類の人間じゃない。
そんな卑屈なわたしに、深い愛を持ったすばらしい魂の子が与えられてる。
この子がわたしの人生のご褒美なのだ、と心から思っていました。
だからそれ以上を求めるなんてバチが当たる気がしました。
オトナだから、我慢や犠牲はそれなりにみんなある、と思っていたし、わたしは暗く生きているから暗くてもしかたないって思っていました。
こんなムスメを生めてしあわせ。
それがすべて。じゅうぶんにしあわせ。そう満足していました。

そんなわたしが数年前にひどく体調をくずしたときに気づきました。
しんどくてもまわりにやつあたりをしないわたしの性格はわたしにある立派な愛なんじゃない?って。
自分のなかに愛を発見してうれしかった出来事です。
体調が悪く寝込むときにそんな発見をして清らかに満ちるわたしの異様に明るい資質を自覚したときでもありました。
愛って自分もまわりも傷つけない。こういう想いのこと。
わたしの光は困難の年月に失われなかったこの光だ。
清らかにそう思いながら体調を回復したら心が異様に元気になって虹を見まくり、ユメノナカノヒトと出逢ってFieldStonesと出逢いました。
天然石も愛だから、愛に意識が向く人生のわたしと、天然石の愛と、魂の愛がつながって、そこからの日々は愛の矢印だけがありました。
愛に満ちた天然石と、愛そのものな魂と、愛が枯渇しているわたし。
愛っていう矢印が『愛を学べ』と天然石と魂から容赦なく刺さってきました。

愛の魂に向かう内観は自分を痛めつけるような思考や行動を気づき尽くし、手放すまで、次々と自分のイヤなところを目の当たりにするし、まわりにイヤなことが起きたりしてかなり苦しみ涙を流しました。
良かれと思っていつもまわりに合わせていた自分は、まわりに良く思われたかった自分の裏返し。
自分の都合よりもなんでも頼まれごとを引き受けて人を優先していた自分は、だからわたしを嫌いにならないで、という自信無さの表れ。
こんなにやってあげているからわたしここにいていいよね。
こんなに言うことを聞いているからわたしをジャマ扱いしないで。
自分のすべての思考パターンにこの考えが透けて見えました。
これは『知ってる』と思い心を探りました。
小さいころのわたしが見えました。

小さいころにずっと母を気にしていたように今はオットが機嫌が悪いとわたしは萎縮していましたが、気にするのをやめました。
不機嫌の原因がわたしなら不機嫌になる原因を話して誤解を解消しました。
だけど原因がわたしではないならオットの不機嫌は『わたしとは関係ない』と切り離しました。
オットの不機嫌に意識を合わせない。
話を聞いて同情しようとしない。
オットの不機嫌をなんとかしてあげようとしない。
わたしの心をそのように設定して貫きました。
今までだと話を聞いてあげる姿勢になり、オットの不機嫌の元である怒りや憤りが抜けるように相槌を打っていました。
だけど今思えば相槌を打つというのは怒りを抑えにくいオットにとっては同意してもらうことで怒りが煽られてもっと膨らんでいるような気がしました。
なので、そんなことがあったんだね、としか言わないようにしました。
そしたら怒りは膨らまないから話がすぐ終わるようになりました。
オットがイライラしてもわたしは予定通り自分のことをしたし、自分の機嫌を守りました。
オットを気にするのをやめて、石のことを考えたり書きたい文章を書いたり自分に集中し、常に自分の気が減らないように満たすことをしました。
これがわたしの学びだと思いました。

わたしは小さいころに、お母さんかわいそうって思っていたからそういう人をなんとかしてあげたいっていっしょうけんめいでした。
お母さんを助けたい。お母さん笑って。っていつも思っていました。
それもまちがいではないけれど、相手に合わせすぎてずっと相手を見るクセがついてしまった、って思います。
そして、なんとかしてあげたいのになんにもしてあげられなかった、と自分の非のように思ってしまうクセも染みつきました。
非のように自分を役に立たないと思うからか家族の世話を焼きすぎていました。
自分から世話を焼き、頼まれごとも引き受けすぎて常に自分が満タンでした。
仕事でもないのにノルマが課せられた人みたいにいつもいつも時間に追われていました。
それでもやってあげるとありがとうと言われる数少ない場面があり、唯一自分の価値が感じられる機会であり、そこにしがみついていたなぁって思います。
自分の時間が無くても用事を断れなかったです。
疲れたのに休めない。だれのせいで時間が無いのか。
頼んでくるばかりの家族のせいだ!と責任転嫁しました。

それが、天然石を持つようになり、自分のなかの思考の捩れがほぐれてまわりをシンプルに見渡すようになりました。
人生で始めて自分を愛を満たすことを知ると、すべてに対してリセットする感覚を持ちました。
やりすぎていることややりたくないことを断るようにしよう、と思いました。
断って怒られたって、わたしも休まないといけないから、とふつうに思えたからです。
そんなある日、オットがいつものようにボタン付けを頼んできました。
やりたくないって思って思いきって、めっちゃ明るく『いやっ』って言ったら、あぁそうか、じゃあ自分でやるか、ってそれだけでした。
え、そんなもん?って拍子抜け。
なんでもわたしがやらなきゃいけないって思ってなんでも引き受けていましたが、わたしがそんなだから夫もなんでも頼んできたのかも。
そして、断っても怒られるわけではありませんでした。
役に立たないなら意味がないと言われることもありませんでした。
わたしの思考がそのように世界を見せていたのでした。

断りかたにはポイントがあります。明るく言うこと。
なんなら理由も『疲れているから』とか『自分の用事がある』って堂々とあたりまえの顔で言います。
そこに、断ってもうしわけない、とか、断るわたしはヒドイなぁ、とか思わないこと。
断りにこの意識を混ぜるから、断るなんてヒドイって言われる現実になるんです。

なにかいいモノもらったらいつも夫とムスメに、わたしはいらないからふたりで食べ、と言っていました。
だけど自分のことも喜ぶようにする考えに変わると『わたしも食べたい』とすなおに言えるようになりました。
今は楽しく3人で分けあいます。
まわりの人にもそうしてほしいと思う愛を自分にも向けるだけでした。
これまでのわたしはいつも過剰に人に気を遣い遠慮していたな、って思います。
気がついてみるとすごく変で滑稽です。

自分に愛を向ける学びが進むとまわりの人にもやわらかく接するようになりました。
人に愛を与え自分にも愛を与えて、自分の願いも叶えていきます。
愛に囲まれて思考も行動も愛ばかりになって、気づけば自分らしいと思っていた過去何十年もの自分軸など無くなっていました。
内観を始めてわたしの思考は自分を良くするよう、しあわせに導くよう、かなり変わってきていましたが、天然石に出逢ったから違和感に気づけたのだけれど、天然石の無い自力の内観のままでは『このままでしあわせだよね、感謝しようね』と現状維持を促すように思いました。

対して天然石は本当のきもちを追求し浮かびあがらせます。
自分との向きあいはこれでいいの?満足なの?と聞いてくる。
天然石がすでに夢のようだったから石を持ってわたしはかなり満足していました。
このわたしが、もっと、を目指していいのかな。
今のしあわせに満足し足りないっていうのは、すごく未熟で非常識じゃないのかな、って葛藤しました。
本当のきもちは、もっとしあわせになりたい、でした。
どんなふうに、は分からなかったけど、自分のことを好きになってみたいし、心が苦しくないようにしたい、苦しみから解放されたい、って思うことができました。
天然石の清らかな美しさが引き出してくれたわたしのすなおなきもちでした。
わたしには苦しみがふさわしいって思っていたけど、自分が自分にそんなことを思うなんて自分がかわいそうになりました。
自分を見る目が変わっていきました。

今の自分軸の自分を愛していますか?
それは愛か?って自分の思いかたを俯瞰して自問してみるのは自分の軸を見直すきっかけになります。
そしてそれは自分を作り変えて生き直すことににつながります。
天然石との内観の果てに徹底的に愛になります。
愛ではない自分軸は崩壊するけど、崩壊したらいいんです。
新しい基準を持った新しい自分軸になるから、今までと違う新しい世界が創られるんです。

どれだけ崩壊しても、自分が生まれ持ったすばらしい愛の資質が光となり残ります。
その内側の光を自覚することが常に自分の自信となり自分を救います。
そんな自分のことを愛しくなります。
自分のことをありのまま100パーセントだいすきって公言するような、そんな自分になれます。


 
 
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