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第三章天然石と内観16

内観のやり方

第三章天然石と内観16

『「石たちに導かれて体験編」から一年』

内観は心深くの過去を見て、掃除し、手放しに行くのが『内観』イコール自分と向きあう、っていうことだと思っているけれど、この『石たちに導かれて体験編』について今あらためて思うと、この時期は過去から未来へ向きを変えていく一時期の内観を記録しあのだなぁ、と思いました。
自分が行きたい、生きたいと思い描いた未来へ進むのだから、どんな自分になりたいか、どんな場所で生きたいか、自分についていつも真剣に考えていました。

本音はいつも天然石たちがお見通し、って思います。
だから取り繕っても意味がないしすなおな本音を出すしかないです。
すなおな想いは最初はひねくれていたり、愛じゃなかったりしますがそれも自分の必須な学びとなり、気づきとなり、結果自分の愛の魂に近づいていくことになります。
だから心にフタをせずに、いつも素の自分を意識して心をそのまま言葉にしました。

この、素の自分を意識することがすごくだいじだったと思います。
素の自分とはありのままの自分。装わない自分です。
それは自分にとって『ただの自分』なんですけど!
この、ただの自分が落ち着くんです。
人目が気にならなくて、人に合わせなくてよくて、人と違っていても気にしなくて、『わたしはわたし』の意識があるだけ。
自分のなかにあるモノも無いモノもそのありのままを受け入れているんです。
それは、もうだれかのようになりたいとか、だれかと比べて劣等感を抱くとか、そんな自信のない自分の価値観から自分を解放してしまいます。
すごく正しい自己愛だと思います。
傍に本物の正しい愛の天然石があったから正しい愛を感じながら正しい愛の自分に辿り着けたと思っています。

天然石をたいせつに扱いながら、天然石と分け隔てなく自分もたいせつにしなければ、と思うことが多かったなぁ、と思いだします。
この意識が自分をかなり引き上げてくれました。
天然石をたいせつに、居心地よくキレイにしてあげるのに、自分に対しては『わたしはそんなことしなくていいの。適当でいいの。』そう思うことは天然石側からわたしを見るきもちになれば、相手がそんなことを言っていたら悲しいなって思いました。
わたしがたいせつにしていてだいすきな石たちが、自分は適当でいいんだよ、って無自覚に卑屈なことを言ってたら悲しい。
相手を悲しませてはいけない。
だから、自分をたいせつに扱う。
『目』を自分にしたり石たちにしたりぐるぐる回転しながら、わたしはちゃんと正しい愛の意識でいられているかな、っていつも石の目線のきもちになり、自分への意識をチェックしていました。
それは今も続いています。

天然石と出逢ってしばらくしてから、わたしのなかから湧いたすなおな想いたちを今よく思いだすのです。
緊張しなくてよくて、不安にならずにここにいていい、と思えて、わたしも楽しくしていていい世界ってあるのだろうか。
わたしがなにかこの世界の役に立つなんてことがあるのだろうか。
安心して生きたいな。
家でくつろいでいたいな。
ふつうに生きている人にはあまりにあたりまえと言われるようなこんな願いをわたしはキャッチして、それ以降真剣に願っていました。
今思えばわたしのなかのインナーチャイルドの声。本気の願いです。
なぜなら覚えている限り、小さな頃からいつも緊張してずっとまわりを気にしていたからずっと気を張っていました。
それをやめたいのです。
本に出てきた、小学生のわたしが祖父母に言われた言葉『ここはわしらの家やぞ!』ってね、今も刺さっています。
母からの愛が得られずぐらついて生きている子にはかなりキツイ衝撃でした。
わたしの家ではない、わたしには居場所がない、って本気で思って真っ暗。人以下、ペラペラの紙になった気がしました。
母に、どこにでも行きな、と追い出された体験も、わたしには色濃い影響を与えています。
行くところが無い子にそんなこと言うもんじゃない、って怒りが沸く。
そんなことを言われても困らない人になりたい、って今は思います。
キーワードは『家』『安心』『居場所』
わたしには、追い出されない家や本当に安心してくつろげる居場所探しが魂のテーマなのだと思っています。
内観が進んだ今もまだ叶えられていないですが、でも家って自分がエネルギーを増すはずの場所だから緊張せずに安心して暮らして、安心して眠れる家をわたしは求めていきます。
安心できるほど稼ぎ、安心して生きることも含めてそれはわたしの念願が叶った明るい未来のカタチって思います。

最初に浮かんだすなおな想いが最後まで自分のテーマになっていました。
内観のテーマは自分の魂のテーマって思います。
こだわっているからだけど捉われて、刺さって、苦しみ続けている出来事。
反応する言葉。それが鍵です。
わたしの場合は『愛』愛と孤独。誠実という言葉。
自分のそれを分かるのにむずかしく考えることは無いって思います。
わりと簡単に、自分の問題も、願いも、未来への希望も見えているかもしれません。
すぐそこにあるのに見てこなかっただけ。そう思いました。

自己理解や追求にしても、自分を知りたいと思い始めて自分にあるものを見続けたから自分らしさを見つけられました。
この本に書かれた時期から一年が過ぎましたがわたしは今も自分という中心に向けて突き詰めているかんじです。
わたしは今はかなり本来のわたしに戻り、肯定感という言葉も意識しないほど、これがわたしだもの、ってただそれだけになっています。
以前に比べたら神経がズブドイみたいな、別人みたいなわたしです。
自分の人生すべてに意味があると受け入れつつあるけれど、悔やんでも返ってこない子ども時代も、若い時代も、失ったことが本当に悔しいと思う時期がありました。
この悔しさを含む想いが世の中に対して自分が貢献できる糧となってほしい。
これに意味があるならこれをフルに役立てて人のためになりたいです。

過去のわたしのように、暗く重いエネルギーを抱えたままでも生きていけます。
どうしてそんなに我慢して耐えているのだろう?
どうして自分を解放できないんだろう?
なにが重たく、自分を縛っているのだろう?

本に書かれたわたしの体験談はものすごく壮絶な話ではないのです。
わたしは立派な親に育てられていると思っていました。
だけど、わたしは母にムシされて息を潜めて自分を透明人間のように感じていたし、でも食事やモノやキレイな服は与えられていたから、不満を感じるわたしが悪い、と思っていました。
だから母に愛されない、のループ。
自分でも内観するまで『とても分かりにくい精神的虐待』だったとなかなか思えず、分かりませんでした。
それは幼稚園に通う年にはすでに自分の土台をボロボロにしていたと思います。
だから見えないほど深くに縛られていました。

姉妹と比べて母にムシされたなんてあなたの気のせいじゃない?
親は忙しいときがあるから気のせいだったんじゃない?
心の内側を話す機会に恵まれ話してみたときみんなおなじような反応で、すごくキズつきました。
姉や妹が話しかけたらいつもすぐ振り向いていたもの。
わたしが話しかけたら気づいた顔をしていたし、その気づいた気配もまちがいない。
気のせいじゃない。

親子関係、家庭環境、人間関係の悩み、夫婦関係、見た目の悩み、不眠の悩み、孤独ということ。
みんなお母さんのせいなの?と言われたら分かりません。
だけどかなりぶっとい根っこになってわたしの土台を乗っ取ってしまうくらいに、わたしのぜんぶに悪影響があったことは事実です。

それくらいみんななにかしらあるよ。
みんな我慢しているよ。
ほかの人に比べたらあなたは恵まれているよ。
極めつけは、わたしのほうが苦労してるわ、ってよく言われて。
寂しいなら外に出て友達を作ればいいじゃない!ということを言われたり。
深く真剣に悩んでいるのに、悩むにふさわしくないと一掃されるかんじのくりかえしに、悩むわたしが悪いのか、って思わされ疲れてしまう。
親に愛されないようなわたしだもの。もっとしっかりしなくては!とますます自分に厳しくなるしかなかった。
わたしは精神が弱くて心が弱くて、それは甘えているからだ、ともよく言われて、だから甘えるなんて自分の辞書から消してしまっていました。
わたしが悪い、という刷り込みが深まるばかりでした。

原因は小さなことかもしれないけれど、子どもの小さな世界の、絶対的な存在の親の、だいすきな母に作られたキズは、いつも死にたいって思いながら生きるわたしを作ったんです。
そこまでキズが深まって広がるんです。
今時は精神的虐待という言葉も知られていて、もっと深刻な現状の人がいます。
それに比べたらわたしはぜんぜんだいじょうぶなほう。
そう思って、心と向きあうことなく生きてしまうかもしれません。
だけど、わたしみたいな場合でも、愛が分からないから自分の内側から愛を感じられず、愛を生みだせなくて、生きることに楽しみも喜びも、肯定感もうれしさも無く、早く人生終われ、って思うこれまででした。

精神的虐待という言葉をさっき使ったけれど、世の中にはもっともっと深刻な状況で悩む人がいると思います。
だけど深刻な人ほど深刻な問題としてまわりに周知され、それなりの相談する場所があったりします。

ではわたしみたいな『微妙』な人は?って内観の途中に思ったんです。
この憤りに心から共感し、自分の感情に寄り添えるのは自分しかいない、と分からせてくれました。
原因は小さなことと思っていたけど、そこに対して本気で共感して向きあって、過去の自分が癒されたときの心の軽くなった感覚には驚きました。
あと感じたのは心の奥にかなりの空間が空いた、と感じたことです。
そこにすかさず愛のエネルギーが流れ込むイメージをしました。
それで、わたしの深くに愛が満ちていきました。
そして軽やかになった心は、母に対しての強い感情を手放して、意識することが無くなって、思いだすことも減りました。
母をふと思いだしたとしても負の感情が湧かずにわたしはラクになれたのでした。
それは過去を含めた『今のわたし』を受けとめられたからだと思います。

悩む内容はそれぞれ違うけれど、わたしとおなじようにだれにも理解してもらえなかった人や、他人の心無い言葉により、自分がダメだと思わされて自分に厳しくしすぎることがあたりまえとなり生きている人に、このブログも、本も、自分の心に向きあい、本当の解決、本当の解放という真の癒しを得るヒントになったらいいなと思います。

自分が真実苦しんでいるのだから、その真剣さを前に他者の言葉こそ一掃するのです。
耳を傾けるべきは『自分』です。
自分をムシせずに自分の話を聞く。これが自分への愛。
この意識の方向転換がまず大きな変化の始まりです。
本当の愛に向かい癒されるほど、心が軽くなるから、自分にとってはそんなに重たい問題だったと分かります。
この心のエネルギーの軽さを知ってほしいです。
この軽やかさにより世界が明るくなるし、楽しいことを考えるし、しあわせになることはあたりまえだ!とふつうに思えるのです。
そして、やりたかったことをやり、楽しめる。
そうやって命そのものである時間を、自分への愛を満たして生きていけるでしょう。
そのように別人のようになり、人生がまったく変わってしまいます。

だからわたしは、似たようなことを思って苦しみ生きてきた人の言葉を変えたいです。
自分に向ける言葉や意識を変えて、天然石に学んだように自分をたいせつにすれば自分を愛することができます。
自分をたいせつにしながら自分と向きあい、対話を重ねれば自分が自分の理解者となります。
そうすれば、孤独の意識も解消されます。
愛や孤独の解決を人に頼れば人次第となり不安定になるけど、自分は常に自分といっしょにいます。
だれよりも傍にいる存在、死ぬまでいっしょに生きる存在の自分が、安定した愛となり常に共にあるのが分かると、寂しさも感じなくなります。
自分が変わると、それくらい世界が変わってしまいます。
それをわたしは愛の塊の魂となり伝えたいです。

石たちからわたしが感じる愛はあたたかな光のよう。
いろんな色、いろんな姿の石たちを持っているけどその全体で虹色のひとつだと感じます。
虹色が揺らめいているみたいなオーロラカラーのかたまりの根源があると感じます。
こういう意識がモノとしてこの世にあり、そのモノである天然石に惹かれるということは、わたしの内側にもこれに対応した場所があるということです。内側深くに目指していく場所のイメージはそこ。全員のなかにあります。
共鳴し反応し、あったかくなるそこを目指すのです。
そこのエネルギーの心地よさも伝えたいです。
みんな違って、自由で、だからあったかい虹色の光なんです。

天然石って愛だから、天然石を持つことは愛の魂に繋がる切符を持っているように思っています。
そして石からのリーディングメッセージをいただくほどに、自分の魂からの声を聞いて、その声のほうへ行く。
愛の自分に繋がる扉が開いていくかんじがします。
わたしが体験しながら磨いた内観力による『愛の魂に戻る内観法』と、社長さんが続々と解析している『人を救う真実の天然石のチカラと働き』と、真に愛あふれるHanaさんか愛の器で受信し伝えてくれる『魂からの愛と光の言葉』、これらが連動して、わたしみたいな人(が本当にたくさんいると思っています!)のエネルギーを清らかに軽やかに、『愛』にする。
そのように救えると思います。
この真実の愛の天然石を持ちながら、愛の魂に戻る努力を惜しまない人のお手伝いをわたしはしたいな。
現実は『あなたがそう思いこんだからそうなったのです』というけれど、わたしのように似たように歪み、自分に厳しく生きるしかなかった人にはそれは正しいけど強すぎて酷な言葉です。

わたしはわたしの持っているやわらかな声とやわらかな話しかたで、優しい言葉で会話したい。
わたしにウラオモテがなく真実で誠実だと伝わるように、目を合わせて信頼を感じてもらいながら話せたらと思います。
表情や言葉の、その人らしくない、愛ではない、という違和感をわたしは見抜き気づけるから、ひとりずつ顔を見て話す機会があったら、わたしはこの世に役に立てるかな、とこの前思いました。
見た目を気にしているわたしが顔を見せてもいいかなってそんなふうに思うほど、わたしの心はさらに変化しています。
気にしている顔を見せるのはもちろんだれにでもじゃありません。
わたしと山ほどの文字量で内観について話していて、内観が本当に本気の人にだけ。
わたしを本気で頼る人、心がつながる人だけです。
それぐらい話している人とは雑談もたくさんしています。
わたしはその人が気づいていない良いところ、愛や光のところを見つけてあげるのが得意です。
それも積極的に伝えたい。
わたしの感覚のすべてを役立てて、優しい愛の言葉を使いながら、その人の心に光を灯して、その光を増やしてあげたいです。
その光が、その人の愛の魂に繋がっているからです。
そんな生きる道をイメージしました。
そんなふうに思いながらわたしは致命的にいろんなことが理解できなくて、どう実現するやら分からないのだけどね。
最近は特に、自分と繋がるほど心の深く広い世界のなかにしか言葉も理解力も持っていない気がしています。
現実的なところは食べものを作ったり掃除したり、基本的な生きるための暮らしを重要視する。
すごくシンプルに極端な自分が見えてきています。
そして今住む家は個室も無く家族の物音や話す声が筒抜けに響くから現状は静かに話せる環境もありません。
だけど思いついたことは、わたしにできるわたしらしいこととしてしっくりと一致して感じられたから、道は合っているように思います。
叶うように言葉にしてみました♪
あとはかみさまに、宇宙に、お任せします!
わたしにはもう思いもよらないけれど、道が合っているならこんなわたしでも実現可能になっていくはずです。
わたしの存在の意味と価値が詰まっていて、発揮されて輝くことだもの。
そんなふうにも、生きてて初めて思いました。

先日48歳の誕生日を迎えました。
生まれてきたことをわたし自身が喜んでいなかったから、毎年『誕生日おめでとう』という言葉を表面でしか受け止められず、苦痛でした。
昨年もまだ少しそんなわたしだったけど、今年初めて、生まれてきてよかった!って、自分で健やかに思うことができました。
この変化を感じたことがうれしかったです。
すごくたいせつな意識の変化です。
内観をし続けて、本当に大きなエネルギーを取り戻したということです。

わたしみたいにいつも悩んで卑屈に窮屈に生きてきた人へ。
すべての魂はしあわせに生きる価値がある愛の魂です。
愛じゃない思考を捨てて、自分の愛とつながって、愛の自分を取り戻し、愛あふれる人生を創造しましょうね!


 
 
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