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第一章なぜ内観をするのか4

内観のやり方

第一章なぜ内観をするのか4

『自分を肯定し自分の人生を生きるため』

内観という言葉に反応したときには心のなかに『どうにかしたいこと』があったと思います。
それが心にあるままでも今までのように生きていけるけど、それを終わりにして新たに生き直したいと思ったから内観というキーワードに反応したのだと思います。
このタイミングには意味があります。
必要にじゅうぶんに学ぶ体験ができたから、その体験を活かしながらそろそろ自分に戻り自分を生きたくなっているのです。
自分をまるごと受けいれて、肯定感に満ちて生きていきたい。
その自分をまんなかにして、あたりまえに自分が主役の人生を生きたい。
みんな生まれたからには自分がしあわせになるために行動していいんです。
そのことに遠慮がなくなるよう、フルパワーでしあわせに向かえるよう、自分にかけている制限や戒めを解いてしまうといいって思います。

自分を解放するために自分を隅々まで見て心のなかを掃除するのですが、自分というなかには長所も短所も、良い記憶も悪い記憶もあります。
内観をしていると特にひどい記憶がよみがえりつらく苦しくなるときがありますが、内観は『純粋な愛の自分』に戻るため『愛ではないもの』を手放す必要があり、だから思いだすのだ、ということをいつも覚えていてほしいです。
再びショックを受けてキズつき閉じこもるためではありません。
部屋をきれいにするためにゴミや汚れ、いらないモノを一旦見るのとおなじです。
思いだして苦しくなるけど、それを手放すことで『今まで』が変わります。
その場所に天然石の深い愛を感じ満たすことで『今』が変わり『これから』も変わってしまいます。

内観が進むと自分が人にしたひどいことも思いだし後悔に襲われるときがあります。
これが、こんなわたしなんてしあわせになる資格がない!と思わせて、しあわせになることを制限したり拒ませます。
だけど、これも過去のひどい自分を目の当たりにしてもそこにとらわれないでほしいのです。
なぜ思いだしたか?
もう許されて、手放していいときが来たからだ、と思ってほしいです。
自分で自分を許すなんて調子が良すぎる考えでは?と厳しい自分が騒ぎますが、自分の罪に向き合っている時点ですばらしい真摯さだと思います。
人って、されたことに騒ぎます。だけど、自分が人にしたことは忘れているか、向き合おうとはしないものです。
ここに向き合える人は、魂が誠実。真面目です。
真面目な人は厳しくて、だから自分を許さないんですね。
だから制限のなかのしあわせで満足しようとします。
そして、こんな自分、ってよく言います。
心当たりありますか?
心当たりある人は内観してその根っこを把握し、もう自分を許してほしいです。
自分の罪に向き合う時点で許される価値がある行為だと思います。
心のなかで謝り、自分を許す体験に感謝することがたいせつだと思います。
それで自分も人を許せる愛の人になります。
すべての人は許されるし、やり直せるんです。
この書きかえのために、今思いだしたのです。
しあわせに生きる決意が揺らいでも心をいつも立て直してください。
天然石たちもみんなあなたのしあわせを願っています。あなたの魂も、です♡
つらくなったら天然石を頼り、愛のエネルギーに癒されてくださいね。

わたしは内観中なんども揺らぎました。
幼いころに家族にかなりひどいことを思っていました。
母を苦しめる祖父母がどっか行ったらいいのにっていつも思っていたし、ついでに自分が苦しさから逃れたいから、家族もみんないなくなったらいいのにって思っていました。
幼いころまわりにいた子たちにもひどくキズつけることを言ったなぁって次々と思いだします。
子どもって、言ったり言われたりしてそんなものかもしれません。
だけどわたしは、そういうことを言うたび自分の心が大きくズキンと痛んだ瞬間をものすごく覚えているのです。
だからわたしにはこれがとても意味がある学びの出来事だと思います。
言葉にしたことは消えません。
それはあたりまえのことだけど、言葉は消えないということに内観をはじめてから深く実感したとき、本当に苦しく悔いました。
だから、いなくなれ、なんてひどい言動をした自分は許されるべきではないって本気で自分を責めていました。
罪を償うように自分を世間からいなくさせて一生生きると思っていました。
その深い後悔のおかげで今は身近な家族にも言動を気をつけるわたしになっています。
実際に会っているわけではない遠くのだれかに対してもひどいことを思わないように言わないようにしています。
心の悔いや後悔を戒めにして成長を目指したのもあるけど、目の前にいなくても言葉にすると念が飛んでいくとわたしはなんとなく思っている。そんな理由もあります。

自分が思いだしている人たちみんなに謝りに行くことはできないけれど、ごめんなさい許してください、と祈りを重ねることはできます。
それは伝わると思います。亡くなった人にもです。
都合のよいとらえかたではなく本当に謝るエネルギーは魂レベルで届いていくと思います。

そのエネルギーが届くほどわたしはだんだんと許されていく、と思うとき、自分がこうして許されるならば自分もまた人にされたひどいことを思いだしたとしても、怒りが再燃しながらもだんだんと相手を許せる魂に変わっていける、と思いました。
この、許されて許すエネルギーの循環が深い愛の世界を創り、記憶を癒してくれます。
そうやって時間がかかっても少しずつ過去を手放していくことができます。
だからどんな想いにも時間をかけて向き合うといいです。
だけどとらわれ続けないでください。
打ちのめされそうになったら、今回の文章を思いだしてほしいです。
そして、しあわせに生きる自分になるという目標をあらためて思いだし、石を愛でながら休むといいです。

心の掃除をしながら反省や悔いばかりではなく、自分らしさも感じてみてほしいです。
自分らしさを思いだせていますか?

わたしの場合は子ども時代の知り合いと再会したことでした。
子ども時代の知り合いだからか再会の最初から自然と素に近いわたしが現れました。
家族といるわたしも素の自分だと思っていたけれど、ぜんぜんちがうレベルの『素』でした。
その『素』の自分がすごく子どもっぽく明るい文章を書いているんです。その文章の空気感に自分で驚きました。友人には、すなおで無邪気だね、と言われました。
現実のわたしはすなおで無邪気ではありません。そんな雰囲気で家族と話したことがありません。
でもこの自分を知っている気がする、って思いました。
思いだしたのは、いつもかみさまに話しかけていたときのわたしです。
ねぇねぇかみさま聞いて聞いて!って心のなかでずっと話していたんですね。だれも話す人がいなかったから。
見て見て空がきれいだね、雲が早いね、川がきらきらだねって感動を話していました。
再会した友人と話しながらそのわたしを思いだしました。
すごく子どもっぽいけどそのわたしを出すことはラクチンでした。インスタグラムの文章もこのわたしが書いています。
天然石を持ち、本を書いたあたりから、その心のなかにいたわたしが自然にオモテにも出るようになりました。
たくさん話してよく笑うところが出てきたので家庭にいる実際のわたしの雰囲気がすごく変わりました。
自分らしさがあふれて内外一致したのだと思います。
親らしくなくなり、かなり子どもっぽくなったけど、ありのままでいいと思いました。
やっと解放されたわたしをだいじにしたいです。

そしてもうひとつ、相手を想い『一生懸命励ます』というわたしも思いだしました。
それは家族に対しても日々発揮されているけれど、友人がはっきりと書かなくても元気の無さを感じとり、元気を出してもらえるようなことを一生懸命書きました。
わたしは、みんなに心明るくいてほしいって強く思うところがあるんです。
わたしの素から出てくるそういうところがわたしらしいし、良いところだなぁ、って思いました。
小さいころ母に対しても一生懸命発揮されていたなぁと思いだしました。
わたしは本質的に優しくて愛があり、無邪気で純粋で清らかだと感じました。
インスタグラムになにげなく書いた文章に対して、癒されたと言ってもらえたこともあります。
わたしは乱暴な言葉づかいをしないとか、言葉をやわらかに書く、という書きかたへの想いがあります。
それに、常に話す相手が元気になるようにっていう想いがあるのが伝わったのだと思いました。
先ほど書いた過去のわたしの悔いから学んだことがわたしを変えてくれていると思いました。
人は変われるという希望の気づきでした。
そして、良いように成長し変われたことが、過去を償い許されることになると思えました。
自分ひとりでは気づけないことがあります。
人と関わりながらも内観の気づきは増えるし、すごく深まります。

自分のなかに見つけた良いところや自分らしさはきらきら光るカケラです。
そのカケラを自分のまんなかに置いて、全面に広げればいいって思います。
自分らしさや自分の良さを健やかに認めましょう。
自分のことを自分で、わたしは優しくてすなおで無邪気で純粋で清らかだ、なんて言うのは恥ずかしいような気がしますが、自分の内面をよくよく感じるとやっぱりわたしの内面は優しくてすなおで無邪気で純粋で清らかだと思います。
それを良さとしてまっすぐ認める健やかな心の自分で在りたいです。
それに自分にあると思う『良さ』を認めないのはおかしいとも思います。
それらはすべて生まれ持った資質だから。かみさまから与えられ、いただいたものって思うからです。
そう思うと、良さを認めることは恥ずかしくありません。
ただすなおにこの純粋清らかさをありがたく受けとり、そしてそれがわたしに与えられていることを喜びました。
かみさまありがとうございます。って、神社に行かなくてもわたしはいつもかみさまに言っています。
これもわたしらしさです。

どんな自分でどんな世界に生きたいか。具体的な言葉にすると言葉のエネルギーが発せられます。
わたしはすなおで無邪気で純粋清らかなわたしでこれからを生きていく。
これが、わたしが発するエネルギーの特徴だと思います。
そして言いかたなど言葉をたいせつにしながらあたたかく澄んだ心で人とつながりたいです。
そしてもしも、しあわせになる覚悟を持ちきれない人がいたら、その人を全力で励まし導く自分で在りたいです。
みんな救われるし、みんなしあわせに生きられる。みんなその価値があるって伝えたいです。
許し合う愛の世界を創り、エネルギーをぜんぶしあわせに向けて全力でこれからを生きるんだ、ってわたしは掲げます。
みんなにもそう思ってもらえるよう、この生きかたが正しいと証明するためにもわたしは常に堂々とそのように生きて在ると誓います。
罪を償えている実感がわたしを立ち上がらせて前を向かせてくれました。
自分を愛する愛に満ちて立ち直れたのは『天然石の愛がある内観』のおかげでした。

内観をして心底まで掃除することで心の奥に愛と光が届きます。
自分のまんなかがしあわせの光に変われば発するエネルギーが変わります。
自分を心底から肯定して、人生の主語を『自分』にして、しあわせに向けて考えることを始められます。

むかしのわたしみたいに自己肯定感がなく、自己愛もなく、我慢や耐えることがあたりまえになってしまっている人へ。
人に合わせて自分がいつも我慢して、どこか苦しくつらいのだったら自分を苦しめてまでそこにいなくていいのです。
自分をつらくさせたまま人に合わせなくていいのです。
ギリやギムや劣等感など思いこんだ縛りを捨てて、そこから離れてください。
あなたに合った馴染む居場所がかならずあります。
自分の光をたいせつにして、惹かれる光のほうに移動してください。
世界は広いです。人もたくさんいます。
ありのままの自分を出せて、そのままで愛される居場所があります。
人はみな自由なのです。
愛の魂に戻り、真の居場所で生きましょう。
それが本当の人生です。
だれよりも自分を優先させましょう。
しあわせになることに遠慮なく生きましょう!

↑これぐらい遠慮なく覚悟の軸を立ててしまいましょう!
まるごと自分を愛して自分を生きる!長々と書いたけど、だいじなことはシンプルです。
覚悟と宣言のための第一章でした♡

 
 
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