複雑な世の中に思うこと
2024/9/17 instagram投稿
皆さんこんにちは😊
我々今ショップが閑古鳥が鳴いているおかげで暇しているので、どうせ暇なら…と9/14-16と京都奈良に行って参りました。
ストーリーズでも書きましたけど、私の父方は奈良の人でして、私の曾祖父ぐらいの時にはかなりの隆盛を誇った豪商でした。
だから奈良の春日大社の参道に灯籠を建てたんです。
それが今でも残っているからって、一家で一生懸命探したところ、なんと❗一番大きい部類に入るであろう超立派な灯籠である事が判明。
商売はじきに廃れて、私の父が生まれた頃にはかなり苦労したようなんですが、こんなに大きな商売をしていたことがあると言うだけで、ちょっと誇らしい気がしました。
灯籠って、子孫に残すにはなかなかどうして素晴らしい遺産ですよね✨
子々孫々まで長ーく楽しめますから😆
…というわけで、ちょっとその旅行の感想でも…。
京都では鞍馬寺、奈良では奈良公園と春日大社に行ったんですが、鞍馬寺の御祭神は宇宙エネルギー、春日大社の御祭神も御蓋山(春日山)という、正に自然信仰とでも言うべきものでした。
だから鞍馬寺の周辺も春日大社の山も、人が立ち入ることが出来ない、伐採も禁止され、原始林の状態を保っています。
倒木もそのまま。
正に自然そのままという感じ。
自然のままだからこそとても神秘的で力強いエネルギーを感じました。
そして、思ったのです。
「これで十分なのになんで今の世はこれほど複雑なんだろう」と。
私たち人間は宇宙、自然あってこその存在です。
ですから、そんな私たちを存在せしめている自然や宇宙に畏敬の念を感じ、崇拝するのはごくごく自然な感情ですよね。
自然、宇宙と一体という意識のもとでは、自然や宇宙は自分たちを超越した存在です。
私たちは宇宙や自然に生かされているんです。
だからこそ人智を超えた自然や宇宙に対して畏れを抱き、謙虚に生きることができるのです。
でも今の世の中はどうでしょうか。
今の社会が大好きな「えすでーじーず」なんかいい例です。
人間が自然を壊せると思っている。
そこには自然や宇宙に対する謙虚さはありません。
自分たちこそこの世界の支配者であり、自分たちの思いのままに自然や宇宙を、壊すことができる。
守らなければ壊れてしまう。
そう、現代の人間はまるで宇宙や自然を人間が支配していると考えているのです。
(正確にはえすでーじーずビジネスで稼ごうと企む勢力が焚き付けているだけ。要は金儲けのためにやっているだけです。)
また、皆さんの大好きなコ◯ナだってそうです。
私はこのウイルスはデマウイルスに過ぎず、その実体はないと考えています。
でも仮にそういう凶悪な病原菌があったとしたら、そしてその病原菌が人間を圧倒して人間が滅びるのであれば、それは「宇宙の意志」と考えるのが自然です。
でもそれに抗おうとする。
病原菌を人間が支配できると考えるのです。
どうして人間はこんなに思い上がってしまったのでしょうか。
本来人間は自然の一部。
そして宇宙の一部に過ぎません。
でも都市生活が人間の当たり前の生活となった現代では、私たちが踏むのはアスファルトであり、自然の一部ではありません。
そして、自然に触れるといえばせいぜい庭木、鉢植え、花瓶の中の花…ぐらいなもの。
こういう環境で長いこと暮らすと、人は自分が自然の一部である…ということを忘れます。
自然を信仰ではなく、畏敬の念でもなく、鑑賞の対象、気晴らしの対象とする事で、自然を「飼っている」ような気になってきます。
そんな不自然な感覚。
これこそが私たちが不幸を生きる、そして本末転倒的な不自然な行動をとる原因なのではないでしょうか。
本来私たちは自然があるからこそ、宇宙があるからこそ、ここに意識を持って存在できています。
でも現代人はそんなことすら忘れ、自然や宇宙を「支配すべき」「乗り越えるべき」対象と考える。
そこには自然や宇宙に対する畏れはありません。
私は「この世は逆立ち世界」と度々述べていますが、そんな不自由で不幸だらけの世界になってしまっているのもまさにこんな不自然な錯覚を原因とするのではないか。
そう考えます。
我々はもっとシンプルな認識に戻るべきです。
そして私たちを生かしてくれる自然と宇宙に感謝して生きるべきなのです。