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目醒めるとこうなる

社長ブログ

目醒めるとこうなる

2024/08/12 instagram投稿

皆さんこんにちは😊
私、私の魂ちゃんの奴隷なんです❤️
魂ちゃんに逆らえないんです。
だから、日々の投稿もほぼ、魂ちゃんの言うとおりに投稿しています。
先日までは「技」が嫌だったみたいで、その話題が多かったですが、今は魂ちゃんは目醒めに関して語りたくて仕方が無いみたいです。

と言うことで、昨日は目醒める前の前兆現象についてお話ししましたが、今日は目醒めた後の話をしたいと思います。

目醒めるって皆さん、興味があると思われているのか商売になると思われているのかこの「目醒める」関係の商材ってもの凄く多いですよね。
大抵は、「目醒めている私があなたを導いてあげる」とか、「目醒めている私が石にエネルギーを込める」とか言う感じで金儲けしようとするものが多いです。
でもですねー。
そんなこと言う人はちっとも目醒めておりません。

これらの人は「目醒めた人は偉い」とか「目醒めた人は特別だ」という感覚があるからこそ、それを話題にしてお金儲けしようとしています。
でも、「偉い」とか「特別だ」などと考えるのは自我の得意技です。
だから、そんなこと主張している人は、自我に厚く取り込まれている人。
なんかのはずみに、「自分は目醒めている」なんてとんでもない勘違いをしちゃっただけなんです。

自我って「自分が特別」だと考える考え方のクセです。
その特別は、ネガティブなものからポジティブなもの、どうでもいいものまで十人十色、様々ですが、とにかく「自分って…なんだよね」という感じの文型になる考えは全て自我です。
そして、その「特別」という考え方から善悪の概念が生まれます。
自分の基準に合わないものは全て悪。
合うものはすべて善と考えるのです。

目醒めってのはこの「自分は特別」とか「これが悪い」「これが良い」などと言う考え方のクセが「考え方のクセに過ぎない」と言うことに気づくことです。

…と言うことはどういうことでしょうか。

そう、目醒めた人ってのは、「自分は特別な存在ではなくピュアな意識体に過ぎない」と言うことに気づくんです。
だから真に目醒めた人というのは、「その辺の人」となります。
そして謙虚です。
この謙虚は他人に対してへりくだるという意味ではありません。
自分の本体である魂に対して謙虚になるのです。
自分を超える壮大な存在がいることを知り、自分はその存在に付き従うだけだということを知るのです。

さらに目醒めた人は、善悪の概念や、自分のアイデンティティが自我に過ぎないことを知っています。
ですから、自分の外界で起きることにいちいち心を乱されたりしません。
「自分がこうでなければならない」という考えも自我に過ぎないと知っていますから、自分が自分である事に寛ぎます。

自我が強い人はおしなべてこの「自分はこうでなければいけない」「自分はこうであってはいけない」という自我が勝手に作り出した自分像に苦しむ方が多いです。
理想の自分像に自分が叶っていないから、自分を責めたりして自分でいることが辛くなるのですが、目醒めることで、この苦しみを完全に解消することが出来るのです。

脱線しましたが続けます。
次に目醒めた人は、自分軸をしっかりと持ち、ブレなくなります。
そう、イエスキリストがそうであったように。
この自分軸というのは魂が発する「生きる指針」です。
そして心をブレさせる犯人は様々なことをもっともらしくささやく自我に他なりません。
目醒める=自我から脱却する。
ですから、目醒めに至った人はみな、ブレない人になるのです。

これはハタから見ると、一見「頑固オヤジ」のような印象を与えるものです😆
私が繰り返し繰り返し同じことをブレずに伝えるのを「頑固オヤジ」と捉えている方もいるでしょうが、まぁそういった背景があるわけです。

最後に…
目醒めた人は、現実の変化速度が非常に速くなります。
これは、魂が持つ「生きる指針」に従って生きると、魂がその実現を応援してくれるからです。
先日私は投稿で、魂の求めに従って生きることを「追い風の中、ゴールを目指すよう」と形容したのはそのためです。
私たちが魂の「生きる指針」に従って生きるとき、魂は現実を露骨に変化させてでも応援してくれます。
これは「奇跡」と呼ばれる現象で、イエスキリストがその生涯で何度も、大勢の人の前で起こしたものです。
奇跡という言葉も、軽々しく使われますが、本来この奇跡と言う言葉は神聖なものです。
その辺の「技使い」が使って良い言葉ではないのです。

以上となります。